2015年4月19日日曜日

バリの新年を迎えて思う事。

今年は3 月21日がニョッピ(バリの新年)

東京の済生会病院の血液内科の先生から、回復著しく” バリパワーですね ”とお墨付きをもらいました。もうこの一年何の薬も服用していません。すべてはバリの自然の食べ物、飲み物、果実で治療をしてきました。放射線治療を受けた喉頭がんも順調に回復、声帯も以前に戻り、喉のしこりも徐々に取れて行っています。耳鼻咽喉科の先生も内視鏡で診て  ”きれいになりましたね ” と言ってくださった。
以前は西洋医学を施術される先生方は東洋的、また自然治癒などの話をするとあまり興味を示されなかった。今回は血液内科のエクスパートが ” バリパワーですね ”と言ってくださいました。そして日本を後に、バリの新年、その前に私の71歳の誕生日をウブドで家内と2人で静かに祝いました。



この歳まで元気でやってこれた事に、そしてこの一年誠心誠意で尽くしてくれた家内に感謝の誕生日でした。
バリの新年は慎ましやかにまさに謹賀新年なのです。大晦日には悪霊人形を行進、村の邪気をこの人形に込めて焼き払い魔除けをして新年を迎えます。元旦は火を使えないし、家から出る事もできません。暗闇の中、星一杯の空での迎春なのです。それは静かだけではなく、新しいエネルギーというか気が漂った一日で新しい力を頂いてあたらしい年の出発になるのです。元旦はバリの空港も閉鎖、澄み切った空気とバイブレーション、それはまさに精神にも肉体にも素晴らしいデトックスの日なのです。

オゴオゴだんじりは皆に担がれパレードします。

巨大なものは想像を絶するものが作られます。

元旦は食事も作れないので、大晦日にバラ寿司を作っておいてこれを元旦に食べます。そして庭の蓮も今年初の開花をみせてくれます。この新年を味わう為にわざわざこの時期に合わせて私の友人はバリに来ます。便利な国から来て不便を味わうのです。
また、伝統的な影絵芝居(ワヤンク リッ)もテガラランで鑑賞する事ができました。80歳のマイストロによる影絵の魅力は心をラマヤナの話の中に、影のイマジネーションが自分の翻訳をしてくれるようで、魅了されました。また我が村サヤン村でチャロナランと云う奉納舞踊劇が行われ夜中の3時まで続けられました。魔神のランダと善神のバロンが戦いますがランダの魔力の強さは村の青年までをもトランス状態にして自らにその剣を自分に当ててしまうのです。各村では自己のガムランバンドを持ち、村の人の練習の発表会でもあるこの奉納舞踊も村が独自で進めて行くのです。村人は「半農半芸」の素晴らしい生活スタイルを持ち合わせているのです。
京都の法事の時に作るバラ寿司。

バロンの神


チャロナラン
    
新年からバリの伝統的な文化を味わいながら、今年が素晴らしい年になるように生きて行こうと決意を新たにしました。神に与えて頂いた生命、失いかけて初めてそのありがたみと生きる喜びを感謝の気持ちで毎日を過ごし、バりの自然と文化を楽しみたいと思います。
家には4匹の犬が家を守ってくれています。昨年は長い間家を留守にして、入院や通院を日本でしていましたので、寂しい思いをさせました。これからはまたみんなと一緒にすごしたいと思っていた矢先、私のサヌール海岸のヴィラでの絵画教室にパンダをつれて行ったのですが海を見るのも外に出るのも初めてと云う箱入り娘犬は海岸を見るなりその恐怖で一目散に逃げてしまい。追っかけても広いヴィラに入って姿を消してしまいました。教室にも身の入らない状態でサヌールの海岸近辺をくまなく探し、声を出して呼んでも見当たりません。その日は暗くなるまで探しましたが見つかりませんでした。夜はビーチでご飯を食べながら犬の安否を心配していました。次の日は早朝から30キロ離れたサヌールに出向き、今度は母親のモカを連れての捜索活動となりましたが、見つからず暑いビーチの気候に失望感もあって疲れてウブドに帰ってきました。皮肉にもこの失踪の日の数日後がこの子の2歳の誕生日だったのです。半分諦めていると、昼間に捜索ビラを刷って渡したり店に貼ったおかげでヴィラの使用人の方がビラに良く似た犬が庭に隠れていると、電話があり、また車を一路サヌールへと、パンダでありますようにと祈りながら、現場に着くと見失ったヴィラは広くてそこで木を伐る作業をしていたおじさんが壁の隅の草むらに怯えて寝ている犬を見つけてくれたのです。パンダは恐がりで一晩中何も食べずに飲まずにジーッとここで隠れて寝ていたようで、動き回らなかったのが幸いしたようです。
有り難いことに家族を失う事がなくて神様に感謝です。


母親のモカとサヌールの路地を捜索する。


見つかった!家内は歓喜で叫びました。


これでやっとまた家族全員集合出来て本当に嬉しい。


新年前から色んな事が今年もありました、また始まりました。しかし病院で始まる新年ではない事が最高の新年でした。残り少ない親から神から頂いた命無駄にしないように ありがたく生きて行きたいものです。この一ヶ月絵を描く時間もないくらい、色んな事がありました、濃厚な一ヶ月でしたが、家内は一時帰国します。私はまた犬達との日常の中でゆっくりと生きて行きます。ありがとうございました。




オームスアスティアストゥ




2014年11月5日水曜日

バリに帰って来た。

長い一年だった。
全ての治療を終えてバリにかえってくる事が出来てひとしお嬉しい。
バリは乾季がまだまだ続いているようで、毎日快晴、いい天気だ。
もう3ケ月以上雨が降ってないとみんなが言っている。
しかし日本の四季の厳しさから開放されて、常夏の島はウキウキしてくる。
東京での治療中もバリつながりの人や沢山のバリ滞在の友人達が励まし、
サポートしてくれた。人の念いは勇気づけられるものだ。
バリは僕を暖かく迎えてくれる。早速儀式に参加したり、家内のバイクの練習のため、
実習でキンタマニやブドゥグルへ遠乗りをする。
犬達も留守中友達やお手伝いさん家族が面倒をみてくれていたので、
みんな元気に迎えてくれた。
そして、みんなをシャワールームに入れてきれいに洗ってやりました。
庭の蓮の鉢の花も咲き、アボカドの木には無数の実がなっている。
なんと平和で豊かな自然に包まれているのだろうか。



バリでは自然治療に徹することにしている。
果実やジャムー(インドネシアの薬草ジュース)や色んな葉っぱのお茶、
そしてヘンプオイルとすべては準備万端。
バリのヒーラーの人達にも施術をしてもらっています。
データ治療ではなく、感性治療は水、空気、太陽、月のエネルギーまで取り込んで、
無意識中にも毒素を取ってくれそうだ。
この一年間、誠心誠意で僕の治療をサポートしてくれた家内には心配をかけてしまったが、
チョコルダ大師の治療でその心配の疲れを呪文と共に取り払ってくれました。
そして彼女は新しい達成感としてバイクに乗れるようになって、
独立した行動と気持ちのいいドライブを楽しむ事が出来るようになった。




絵画教室も再開して、みんなとクリエイティブな時間を持つ事が出来る。嬉しいことだ。


毎日のようにある祈りの儀式、供養の儀式、祝いの儀式などなど、
大安の日には結婚式の飾り付けがされた家をあちらこちらで見られる。
皇室の火葬儀にも、ウブッドの大きな寺院の再建築の儀式や村の儀式にも参列した。
バリ人ではないし、バリヒンドゥ教信者でもありませんが、一つの神を信じる私には、
みんなそれらの儀式には感覚的に受け入れてしまいます。
信じる事、祈る事、祝う事を毎日のようにしているバリの人達は素晴らしい人間生活を、
しているとしか思えません。真剣に祈り生きている人生は、お金の為に生きている人生とは、
大きく異なります。人としての生きる喜びとミッションは自己的な満足感ではなく、
共に生きていく連帯感の中に多くの喜びを見つけるのでしょう。



人は人によって支えられている、まさに人という字のように。
人と人がサポートし合って作る家族や社会、
そして国であり地球をもう一度やり直す事が出来るなら、、、、、
お金や力の為に人を抹殺し滅ぼす悪魔が地球を社会を牛耳っているのは残念で仕方が無い。
虚実に染まって生きていく快適さに中毒した人達、
身近な自分達の周わりに手を合わせて生きる事の快適さは慈愛に満ちている。
世界の情報がなくても、小さな世界の真実の中で生きて行ける事は有り難い事です。

東京にいてもバリにいても集まってくださる人々は同じなのです。
苦しかった一年を励ましてくださった多くの人に感謝することしかできません。
みなさん、ありがとうございました。






2014年8月15日金曜日

敗戦 69 年に捧げるお話

太平洋戦争が激化する中、アメリカ空軍爆撃士ジョーの乗る空の砦と呼ばれていた、
B17爆撃機がラバウルで撃墜され、唯一助かった彼は負傷のままラバウル憲兵隊の管理する捕虜となった。新しく赴任した加藤将校はオーストラリア兵、アメリカ兵の捕虜の扱いの悪さに収容所を改革、衛生上よくない檻から捕虜を放ち、日本軍兵士と一緒に野菜を植えたり、食料の確保を捕虜と兵士で補っていった。加藤将校は捕虜いじめをする兵士を叱り、お互い国の為に戦う兵士のプライドを尊重した。ジョーは彼の正義感に「侍」をそこに見た。捕虜の健康を考え朝は体操をさせ、農業に従事させた。彼の収容所改革案のお陰で誰も脱走を試みる捕虜はいなかった。

ジョーさん

ジョーは加藤将校に尊敬の念を増していった。空から終戦のビラが舞って悲惨な戦争は終わり、オーストラリア艦で母国に向かうジョー、日本の貨物船で日本に帰る残った日本兵、ジョーは自分のしていた指輪を加藤に送ろうと渡したが、加藤は受け取れない捕虜から強奪したものと思われるであろう、そして二人はその指輪を海岸のヤシの木の根元に埋めて二人の友情のメモリアルとしたのだった。
ジョーはその後アメリカに帰国、ラバウルでのレポートを軍部に提出し、いかにラバウル憲兵隊の加藤将校が捕虜達をフェアーに人道的にまた兵士のプライドを尊重した扱いをしたかを事細かく提出した。そして東京裁判が開かれ多くの憲兵隊の将校は有罪となった中ラバウル憲兵隊の隊長をはじめ将校達は無罪になった。


この写真はジョーが乗っていたB17 爆撃機のクルー、後部列左端がジョー。
墜落した機はコッパみじんになりクルーは皆死んでジョーしか生存しなかった。
それを悔やんで晩年は戦友の遺品探しに何度もパプアニューギニアを訪ね、晩年墜落したB17 機をジャングルに発見した。彼のミッションは戦友の遺品を家族に渡す事が最も大切な自分のミッションであることを確信していた。
50 年代は米ソの冷戦状態の中、イギリスを基地とするB52爆撃隊の指揮をとる大佐として就任していた。その給料をためて65 年前の5,000ドル、今だと4千万円ほどのお金を、戦後の厳しい状況の日本に住む加藤元将校に送った。
「これが私の出来る小さなお礼です敗戦日本でお使いください」と送ったお金を加藤さんは受け取る事なく、
「私は生きて帰国出来ました。夫や子供を亡くされた沢山の戦争遺族がおられます。ジョーさんの送って頂いたお金は遺族の会に寄付させてもらいました」という返事が来た。
その後転居などで加藤さんとは音信が途絶え35年が過ぎた。
どうしてももう一度加藤さんに会いたいと思ったジョーは私に加藤さんを探してくれないかと頼まれた。そして私は加藤さんが福山でそば屋さんを営んでおられる事をつきとめ、
事情を説明して新大坂駅で会う算段をしました。ジョーさんは空軍機ですぐに横田基地経由で大坂入り、広島からの新幹線が新大阪駅に着くとプラットフォームの後部から白髪で長身の加藤さんが降りた瞬間、ジョーさんはその方向に走って行き、二人は涙の抱擁をしているのを見てもらい泣きしました。そして我々はまず広島に行って原爆ドームにお参りと、再びこのような悲惨な戦争が無いように手を合わせました。

自分と戦友の乗っていた飛行機をラバウルのジャングルに発見した時。

悲惨な戦争の中でジョーと加藤さんのお話は、辛くて嬉しいお話でもあります。もう加藤さんもジョーさんもこの世の人ではありませんが、厳しい時期に青春をそして若い命を危険にさらしても人間としての生きるプライドに拍手を送ります。

ちなみにジョーさんは私の義理の父でもありました。
亡くなられた時はメモリアルパークにラバウル憲兵隊の隊長から将校の方の花飾りを5ケたてて冥福を祈りました。
葬儀に来ておられた軍の偉いさん達は「こんな葬儀ははじめてだ」と言っておられました。当時の敵国の将校達の花束に囲まれたアメリカ将校がいた事を。



2014年8月6日水曜日

負けてたまるか癌細胞に。

昨年の12月から急遽入院を強いられた私の血液疾患は、
悪性リンパ腫の一種で「原発性マクログロブリン血症」という
百万人に一人と云う難病と医師に告げられました。
難しい病名には何の実感もなく、医師の進める治療を受けました。
抗がん剤を飲み、リツキサンを点滴する治療は多くの副作用を生じますが、
私は幸運にも何の副作用も出ませんでした。
ただ抗がん剤を飲んだ後、少し気分が悪くなるくらいで、
吐き気も発熱も脱毛もありませんでした。しかし、この抗がん剤で隔週チェックする
血液検査の数値は微小にしか修正されません、そして6ケ月の治療入院を進められ、
東京でも数少ない血液内科の医師が常駐する大病院での治療生活が続きましたが、
3ケ月足らずで、副作用の障害もないので通院治療に切り替えてもらいました。
その後はキモセラピー(化学治療法)を受けていましたが、
どうしても自然治療をしたくて、バリでの仕事や個展の準備があることを理由に、
抗がん剤投与も4月で止めて先生にも理解を得てバリに戻る事にしました。
以前は正常だった白血球も抗がん剤のお陰で下がり、免疫抗体も弱くなった状態、
感染症を防ぐ薬のみ持って犬達の待つ我が家に。


フェースブックやインターネットの情報を整理しながら、
またバリに住む友人達の自然治療情報で治療をしました。
「シルサック」と言うバリに育つ果物は化学治療の数万倍の効果があると云われ、
早速、村の人にも頼んで入手し、お手伝いさんに毎日シルサックの新鮮ジュースを
作ってもらって飲みました。またインドネシアの植物性薬草のジャムーも
ウブッドのジャムーを作るおばさんに血液の浄化や血液癌に効くものを調合してもらい、
毎週飲んでいました。

血液癌の為のジャムーと浄化のジャムー

いろいろ調べて行くと、まさにバリは自然治療の宝庫のようでした。
バリ島の磁場もありますが、火山灰の島には豊かな発育条件があるようです。
友人が薦めてくれるArgillaはイタリアの3万年前の火山灰で
自然の抗生物質や殺菌能力をもっています。
これは泥薬的に皮膚につけたり水を混ぜて上澄みを飲みます。
私の犬の皮膚病や脱肛にもドッグフードに混ぜてやると、
一週間くらいで完治、毛もはえてきました。
他にはスペイン製のものもあり、ジプシーの医者要らずの常備薬とも言われています。

その他にもマンゴスティンの皮を乾燥させた粉状のものや、
煎じて飲む乾物状のもの、ニームの葉っぱを陰干しにしたお茶、
パパヤの葉っぱを乾燥させたお茶も抗がん効果があります。
特にシルサックには大変沢山のビタミンが含有され免疫抗体の促進に役立ちます。
このシルサックの葉っぱを煎じたものも抗がん効果があるのです。
そしてこれらの自然薬は副作用もなく日常的にお茶で飲んだり、ジュースにしたり、
薬を飲むという意識ではなく日常生活の一部に抵抗なく服用できます。

シルサックの実

1ケ月半、これらの自然治療をして、友人の温冷治療も週一回受け、
個展の前に再び日本で血液検査をしました。
ある意味で、この検査結果が楽しみでもありました。
すると先生は無言、私がバリでの治療を少し話しても「フン!」と云う反応。
数値は抗がん剤で毎回下がったり、上がったりとは比較にならない回復でした。
もう化学治療も何も薦められることはありませんでした。

咽喉科で鼻からカメラを入れた所、喉頭に3つの腫瘍があり、
つばを飲み込むと痛みを覚える状態になっていました。
結局喉頭がんの題2期と判断されました。
しかし、以前入院中から病院の乾燥空気で喉が乾き、声がかすれていたのですが、
2月に喉の診断を受けましたが、問題なしと云う事でした。
今から思うとその時点で内視鏡でチェックした喉頭がん早期発見が出来たはずでしたが、耳鼻咽喉科の先生はもうすぐ病院を辞めて新しい先生に変わる時期でした。
ベルトコンベアーに乗せられて診察を受ける患者にはいたたまれない事です。
血液がんを患っている患者をしっかり早期発見するのが医者ではないのでしょうか?
やる気のない医者が適当な診断で患者をより増やして行く
現在の治療システムには疑問を感じます。

血液の数値の回復が出来たと思ったら今度は喉頭癌の疑い早速 CTスキャンで検査、
しかしあらゆる検査の前に誓約書にサインをしなければなりません。
被ばくの副作用や症状の責任は病院ではなく、
本人の責任のもとに検査、治療をするのです。
要するに医師は何の保証も責任もない訳で医療責任の問題は患者任せ。
これはどういうことかと考えました。治療法の確実性のないまま治療が進み、
何かあっても医療機関の責任はのがれていることになります。
早速私は重曹でのうがいを始め、熱治療(遠赤外線)を首筋に与えています。

イタリアのシモンチーニ博士は細菌学者で医者ではありませんが、
がん細胞は一種のカビである事を発表、カンディス菌、真菌の一種で、
マッシュルームなどにつくカビだと発表して、重曹洗浄法で多くのがん患者を、
治療してきました。皮膚がんなどは赤チンで治るとも言われています。


今は喉頭癌治療に専念する毎日ですが、自分の情報で自分を診て行く姿勢で、
自分に合った治療をこれからも進めていきます。
放射線治療も被ばくリスクを考えると折角つけた免疫抗体が失われるのはいやです。
多くの人が心配する癌に対して西洋医学的な処置医学ではなく、
東洋医学的な治療医学を薦めます。
私をモルモットにして難病を克服し、多くの人の心配が取り除ければなんと言う光栄か?

無知の怖さが政治にも社会にも経済にも世界状況にも影響してきます。
刷り込みされた我々の知識をもう一度考え、自己の知として活用し生きていきたい。








2014年5月24日土曜日

ガルンガンのバリに戻って来たよ。

6ケ月の治療生活から我が家に帰って来た。

空港からの家までの道のりは懐かしさと嬉しさで、
流れる景色を見逃さぬようにと夜行便の睡眠不足の目を見開いていた。
絵巻物のような景色にバリを感じずにはいられなかった。
車窓の横を3人乗りのバイクが走る、あー、バリに帰ってきたよー。
マニスガルンガンの日は静かで交通量も少ない。
家の前にはペニョールが建てられ風になびく。
先祖を迎えてのこの期間は朝晩、家でお寺でお祈りが続く。



なぜこんなにも心地よく、故郷に帰ったような安らぎが得られるのだろうか? 
そこに自然と島民の信仰に包まれているからなのだろうか? 
東京の合理的な便利な世界とは対照的に不便で見えないものを感じ、
信じて祈るエネルギーが当たり前のように思えてくる。
不便だからこそ自分と向き合う時間があるのだろう。
合理的ではなく合歓的なのかも知れない。
既に僕は癒しの波に呑み込まれているようだ。

もうすぐ犬達にも会えると思うとワクワクしてくる。
今日飛行機の窓から見た雲の形が犬だった。
もう僕を迎えに来てくれているのだなーと、感動した。


家の路地に入ったとたんにみんなの鳴き声が聞こえてくる。
門を開けると4匹が跳びついてくる。
身動き出来ない状態で皆と触れ合う、座っても乗っ掛かってくる、
もう誰も止められない。
「ごめんね、長い間留守をして、寂しかったんだねー」と犬に話しかける。
答えるように「ウオーウオー」と叫ぶ、落着くまでに20分はかかった。
あーやっと我が家に帰って来たなー、と言う実感が湧いて来た。
カデッが庭のパパイヤの実を取って来て蜂蜜をかけて出してくれた。
犬達も集まって来てみんなでパパイヤを食べた、至福の時間。





かあさん、とうさん、息子に娘。
僕の大切な家族。

殆ど寝れなかった夜行便の疲れも吹っ飛び、只ただ帰宅の感動に酔いしれた。
神様、ありがとう。辛い闘病生活からの開放は修行を終えた贈り物。
自分が一人で生きているなんてことを一掃し、
人の、自然の、動物の全ての生あるものに活かされている自分が幸せ。
周りのすべてに活かされているのを学んだ東京生活でもあった。
こんな機会が無ければ気がつかない、
人の、自然の、恩恵に吾は生きているのだなー。
感謝の気持ちで一杯です。

私の先祖さんもきっと今は僕と一緒にいると思うとありがたい。
29日のクニンガン(送霊の日)までは一緒に過ごしましょう。

オームスアスティアストゥ。







2014年5月8日木曜日

富山、入善を訪ねて。

肩の脱臼をかばうように巻かれた腕布で東京に戻る。
惨めな凱旋、しかしバリでの10日間はアッと言う間に過ぎ、
楽しい犬との生活がまた恋しくなってきました。

5月は少し暖かくなったので、バリで作った銀細工された杖をトモカのおじさんに、
プレゼントがてら初めての富山の旅に出かけました。
家内の生まれ故郷の富山に新鮮な気持ちと期待が膨らみます。
立山連峰に残る雪を車窓から眺めていると、日本の原風景。
険しい山、厳しい日本海そこに育む生活はバリに住んでいる私には想像ができない。

バリで作ったティーク材の杖にマスの銀細工を施したもの。

入善と言う駅で降りる、そこは典型的な地方の駅前、連休だのに人一人歩いていない、
シトシトと降る雨の中、トモカの知り合いが庵主である「好椿庵」を訪ねる。
そこは落ち着いたたたずまいの一軒家、門からの庭には沢山の椿が植えられ、
母屋へと招いてくれる。民芸的なたたずまいの家は大木の梁が重厚さを増す。
中は隙間もないくらいのコレクションが無造作に並べてある。陶器、木彫り、面、絵画、仏像 などなどあらゆるものが壁に棚に床にちりばめてある。
いろりを囲み庵主の話を聞くがその話題は和歌から現代美術までとバリエーションのある会話でした。独学書道、独学墨絵もかかれ、その文人的才能と悠々自適の82歳には脱帽。



庵主の仕事テーブル


この後、発電所美術館に、入善町の水力発電所が再建される時、
前町長が古い発電所を町の美術館にと働きかけて出来た「発電所美術館」。
山麓にある100年前のレンガ作りの建物は古さを感じさせない
又、時間を感じさせない威厳のある建物だった。



中は天井の高いスペースで一本の柱もない広い空間が見通うせた。
彫刻からタブロー、インスタレーションまでいろいろのジャンルの現代美術が展示され、
作品にはこの特異なスペースに負けない存在感が必要な気がした。
靉嘔や斉藤義重の作品もあった。奥にはタービンの大きな機械が鎮座し、
壁には水が流れ落ちる大きな水口が残されていた。
配電盤が発電所時代を想像させてくれる。
子供達のアートワークショップや、レジデンスアーティストの工房も備えられている。
こんな片田舎の町に素晴らしい発想で現代美術を発信している美術館がある事自体、
誰が想像出来たことでしょう。
町の歴史と未来をみてのこのプロジェクトを遂行した前町長に脱帽。




小雨が続く入善町を山の上に向かって行く、そこには昔あった「舟見城遺跡」がある。
山頂は霧に覆われ水墨画の世界が広がっていた。
本陣跡に作られたこの地方の屋敷、大きな梁と高い天井が印象的な民家。
保存にも大金がかけられた。
大きな檜の一枚板の戸はその木目の美しさを数百年の時間保つ。
米俵が梁にぶらさがっていた、聞くと湿気、ネズミから米を守るの為に吊ってあると言う。歴史を体感出来る博物館のようでもあった。



崖の方には舟見城跡、この建物もこの地の有志が自分の退職金を投出して再構築したもので、天守閣からは日本海、入善の町が一望出来る。
霧に埋まった景色は絵画的情緒と詩的な世界を与えてくれた。
前町長の文化的意識の価値観と情熱が残した地域の遺跡が今も蘇っているのは、
人が歴史、文化を残す役割を果たした結果なのだろう。
経済効果中心の地方行政もこの入善町の文化的行政を少しは見習ってほしいものだ。





天守閣から一望する入善町、遠くには日本海















2014年4月26日土曜日

軌道修正の旅

4ケ月の闘病生活は初めての体験であり、かなりハードな体験でした。
ストレスも出て来て東京での治療生活が重荷にも感じられ、またバリにやり残した諸々のことを整理することもあって、10日間ウブッドの自宅に帰りました。
羽田からのガルーダ航空の直行便はいつもエアーアジアで一日かけての旅よりは快適なものでした。空港にはカデッ達が迎えに来てくれ、2人ともボディビルで鍛えた体でスーツケースを軽々と運んでくれます。
家に着くと犬達の大歓迎、飛びつかれるとこけそうになるくらい、体当たりしてきます。30分くらい続く歓迎の嵐、4ヶ月の留守は彼達にも初めての体験だったので、寂しい思いをしたことでしょう。休む事もなくジャレあう我々、なんと幸せなひと時、みんな元気で子供達は一回り大きくなって私たちを歓迎してくれました。
丁度次の日が子供のトロとパンダの一歳の誕生日で、パンケーキにケチャップとマヨネーズをあしらったバースデイケーキを作って祝いました。私たちの大切な家族です。



 
雨季の4ケ月での留守はいろんなものが機能しなくなっていました。バイクはブレーキがつぶれていて、バッテリーもあがってしまい、修理に出すとエンジンのパーツからタイヤの交換とたいそうな修理になってしまい、車も留守中友人にみてもらっていましたが電気系がダメになっていました。そして一番のダメージは8年使っている I-Mac のコンピューターが起動しません。ウブッドの雨季はカビと湿気でハイテク電気製品を止めてしまいます。早速バリのマックのエンジニアーに診てもらいましたが、ロジックボードがいかれていて、買い替えるより方法はないと、アップル代理店に聞いてストックがあるか確かめてあげるよと簡単に言うが20万円近くするものをおいそれとは買い替える余裕などない。
そこで私の Macの先生に連絡して診てもらうとハードディスクだと言う。彼はカナダ人でモントレオールのアップル社に勤めていたコンピューター技師で、新しいハードディスクをオーダーしてくれて、交換修理してくれた。ハードディスクは9千円ほどでした。
そして新しいバージョンのマーベリックやフォトショップ、イラストレーターもアップロードしてくれた。これで我コンピューターも再生しました。
修理に多忙な数日が過ぎて、サヤン村では夜の10時からチャロナラン舞踊の会が開催され朝の3時まで行われた、チャロナランは善霊(バロン)と悪霊(ランダ)の戦いと、悪霊と戦う人の話などを踊りにしたもので、村人のガムラン楽団、ダンサーが演じる。半農半芸のサヤン村の人達は二つの顔を持っている。田んぼで働く姿と儀式で正装して神に捧げる時の姿は実にカッコいいです。



ウブッドに住む温冷お救い治療をするサコさんに治療をしてもらった。特に白血球を増すための治療を特別にしてもらい、滞在中2日血液の浄化をしてもらいました。彼女のパートナーはミュージシャンでプラネット・バンブーと言うバリで活躍するグループのリーダー、トモカは今彼らがレコーディングする新しいアルバム -Reborn- にも参加しています。また彼女が新しく作るアルバムにはこのグループの人やバリに住むミュージシャンとの共演で6月には彼女の新しいCDのレコーディングがバリで始まります、楽しみです。彼女も滞在中はリハーサルやウブッドのラジオにゲスト出演と忙しくしていました。
そんな中、良く行ったギャンニヤールの夜店に行き、屋台で食べたり、サンダルを買ったり、蓮の鉢の中にいれるメダカを買ったりして楽しく、懐かしい夜の賑わいをたのしみました。




ところが日本に発つ2日前に思わぬ事故に遭遇しました。買い物を済ませて沢山の荷物を持って帰り玄関の門が開いた瞬間に一匹の犬が外に出て、みんなも出ようとするので慌てて門を閉めようとして転倒、激しい痛みで動く事も出来ず、家内が近所の人達を呼んで来てベランダに運んでもらったのですが、肩から落ちて脱臼してしまいました。すぐに病院につれて行ってもらい、痛み止めの点滴をしながら整骨の先生を待つ事3時間、レントゲンを取ってみるとやはり肩の骨の脱臼、友人達が心配して見守る中麻酔を打たれた私は深い眠りに、目が覚めるとみんなの笑顔がそこにありました。そして家に戻った時は夜の1時を過ぎていました。
翌日お手伝いのお母さんが昨日転倒した場所を浄める浄化の儀式をしてくれ、私に降り掛かった災難の厄払いと健康を祈っていただきました。
なんと言う思いも寄らぬ災難にア然、首から吊った腕はしびれていました。骨が折れていなかったのが不幸中の幸い、不自由な身体での荷造りはわびしいものがありました。
そして帰る日の朝、バリアンのチョコルダ大師のもとをたずね悪い「気」と肩の施術をしてもらい、師の作った薬をもらって一路空港へ、短い旅に起こった沢山のことが遠い記憶のように頭をかすめながら機上の人となりました。





今回は本当に沢山の人にお世話になって無事に日本に来れました。自分ひとりでは生きて行けない事を痛感し、人の温かさ、有り難さに終始手を合わせる気持ちでした。2日後の血液検査は先回抗がん剤治療をスキップしたにもかかわらず、白血球は増え、上々の結果となり化学治療を受けました。私の人生の軌道修正を助けてくださった多くの人たち、友達に心から感謝をいたします。ありがとうございました。
オームシャンティ、シャンティ、シャンティオーム