2014年8月15日金曜日

敗戦 69 年に捧げるお話

太平洋戦争が激化する中、アメリカ空軍爆撃士ジョーの乗る空の砦と呼ばれていた、
B17爆撃機がラバウルで撃墜され、唯一助かった彼は負傷のままラバウル憲兵隊の管理する捕虜となった。新しく赴任した加藤将校はオーストラリア兵、アメリカ兵の捕虜の扱いの悪さに収容所を改革、衛生上よくない檻から捕虜を放ち、日本軍兵士と一緒に野菜を植えたり、食料の確保を捕虜と兵士で補っていった。加藤将校は捕虜いじめをする兵士を叱り、お互い国の為に戦う兵士のプライドを尊重した。ジョーは彼の正義感に「侍」をそこに見た。捕虜の健康を考え朝は体操をさせ、農業に従事させた。彼の収容所改革案のお陰で誰も脱走を試みる捕虜はいなかった。

ジョーさん

ジョーは加藤将校に尊敬の念を増していった。空から終戦のビラが舞って悲惨な戦争は終わり、オーストラリア艦で母国に向かうジョー、日本の貨物船で日本に帰る残った日本兵、ジョーは自分のしていた指輪を加藤に送ろうと渡したが、加藤は受け取れない捕虜から強奪したものと思われるであろう、そして二人はその指輪を海岸のヤシの木の根元に埋めて二人の友情のメモリアルとしたのだった。
ジョーはその後アメリカに帰国、ラバウルでのレポートを軍部に提出し、いかにラバウル憲兵隊の加藤将校が捕虜達をフェアーに人道的にまた兵士のプライドを尊重した扱いをしたかを事細かく提出した。そして東京裁判が開かれ多くの憲兵隊の将校は有罪となった中ラバウル憲兵隊の隊長をはじめ将校達は無罪になった。


この写真はジョーが乗っていたB17 爆撃機のクルー、後部列左端がジョー。
墜落した機はコッパみじんになりクルーは皆死んでジョーしか生存しなかった。
それを悔やんで晩年は戦友の遺品探しに何度もパプアニューギニアを訪ね、晩年墜落したB17 機をジャングルに発見した。彼のミッションは戦友の遺品を家族に渡す事が最も大切な自分のミッションであることを確信していた。
50 年代は米ソの冷戦状態の中、イギリスを基地とするB52爆撃隊の指揮をとる大佐として就任していた。その給料をためて65 年前の5,000ドル、今だと4千万円ほどのお金を、戦後の厳しい状況の日本に住む加藤元将校に送った。
「これが私の出来る小さなお礼です敗戦日本でお使いください」と送ったお金を加藤さんは受け取る事なく、
「私は生きて帰国出来ました。夫や子供を亡くされた沢山の戦争遺族がおられます。ジョーさんの送って頂いたお金は遺族の会に寄付させてもらいました」という返事が来た。
その後転居などで加藤さんとは音信が途絶え35年が過ぎた。
どうしてももう一度加藤さんに会いたいと思ったジョーは私に加藤さんを探してくれないかと頼まれた。そして私は加藤さんが福山でそば屋さんを営んでおられる事をつきとめ、
事情を説明して新大坂駅で会う算段をしました。ジョーさんは空軍機ですぐに横田基地経由で大坂入り、広島からの新幹線が新大阪駅に着くとプラットフォームの後部から白髪で長身の加藤さんが降りた瞬間、ジョーさんはその方向に走って行き、二人は涙の抱擁をしているのを見てもらい泣きしました。そして我々はまず広島に行って原爆ドームにお参りと、再びこのような悲惨な戦争が無いように手を合わせました。

自分と戦友の乗っていた飛行機をラバウルのジャングルに発見した時。

悲惨な戦争の中でジョーと加藤さんのお話は、辛くて嬉しいお話でもあります。もう加藤さんもジョーさんもこの世の人ではありませんが、厳しい時期に青春をそして若い命を危険にさらしても人間としての生きるプライドに拍手を送ります。

ちなみにジョーさんは私の義理の父でもありました。
亡くなられた時はメモリアルパークにラバウル憲兵隊の隊長から将校の方の花飾りを5ケたてて冥福を祈りました。
葬儀に来ておられた軍の偉いさん達は「こんな葬儀ははじめてだ」と言っておられました。当時の敵国の将校達の花束に囲まれたアメリカ将校がいた事を。



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